2014年09月26日
ベトナム戦争とは
こんにちは。アーデルハイトです。
今日は装備とかミリタリ的日常とかではなく、戦争のお話。ベトナム戦争という戦争について書いていきたいと思います。こんな記事を書くのはいろいろな意図があるんですが、誤解を招きたくないので省略します。ただ一つだけ、自分は戦争を賛美するつもりはまったくないことだけ念頭においてもらえればと思います。

そもそもなぜベトナム戦争は起こったか、実はすごく複雑で一言には言えないのですが、元々ベトナムはフランスに植民地化されていまして、第二次大戦中に日本軍が進駐して解放します。戦後、フランスは再びベトナムを植民地化しようとしますが、ベトナム人からの抵抗を受けます。この抵抗の背景には、共産主義者たちがいました。彼らはベトナムを手始めに、東南アジアを共産主義化しようとしたわけです。これを機に第一次インドシナ戦争(1945〜1954)が勃発し、結果フランスはベトナムから手を引きます。ベトナム戦争映画でフランスがちょくちょく絡むのはこういうことです。
フランスを支援していたアメリカは、共産主義勢力の拡大する東南アジアに危機感を覚えます。そこでベトナムを南北に分断し、政治的介入を行います。南ベトナムと北ベトナムです。北はソ連が、南はアメリカが支援します。

統一を掲げる北ベトナムですが、これに対しアメリカは選挙によっていずれ統一しようと言います。が、実際その通りにはいかず、北ベトナムは武力によって統一をしようと北ベトナム軍が、1960年には南ベトナム解放民族戦線(National Liberation Front、略称NLF)が結成され、それぞれ軍事行動へ乗り出します。ベトコンと呼ばれるのはこの解放戦線の人間を指し、由来はベトナム共産→ベトナムコンサン→ベトコンです。ちなみにNLFは後のテト攻勢の失敗により壊滅し、その後は北ベトナム正規軍が戦うことになります。

そうはさせまいとアメリカはベトナムに軍事顧問団(派遣先の組織力や訓練などの強化を目的とした軍人たち)を派遣します。そして本格的な軍事衝突となってしまいます。これを第二次インドシナ紛争(1961〜1975)と言い、一般的にベトナム戦争と言われる戦争です。



結局アメリカも北ベトナム相手に苦戦し(ベトコンの輸送路であるホーチーミンルートの存在、ソ連・中国・北朝鮮の支援、初期にソ連軍人に被害が出るのを恐れて効果的な空爆ができなかった、そもそも工場などの爆撃目標が少なく爆撃自体あまり効果がなかったなど、いろいろな要因があります)、一進一退を繰り返します。さらにアメリカ国内での反戦運動の影響もあり、1973年にアメリカ軍はベトナムから撤退します。この戦争により、アメリカ軍は58000名が戦死します。

元々士気も低かった南ベトナムはその後北ベトナムに押され、翌年1975年に南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチーミン)が陥落し、ベトナム戦争は終結します。
ベトナム戦争はどちらが勝ったのか、というとこれもまた難しい問題です。軍事的には中ソの支援を受けた北ベトナムの勝利です。が、同時に損害も大きく、戦後の復興に苦労したほどです(戦死者だけで100万名といわれています)。
北ベトナムの指導者は、アメリカ国内でテロをするなと指導していたそうです。なぜなら、そうなるとアメリカは国をあげて戦うからです。テロではないですが、第二次世界大戦の真珠湾攻撃がそのいい例です(真珠湾を忘れるな、と言われたほど)。アメリカ国内での被害はないのに、多くの兵士が死ぬ。これが前述の反戦運動に繋がったと言われています。民主主義であるアメリカで、戦争が支持されないということはどういうことか、それはベトナム撤退という結果からわかります。
ベトナム戦争の間には、様々な戦い、悲しい事件がたくさんがあります。ワンス・アンド・フォーエバーの題材となったイア・ドラン渓谷の戦い、反戦運動のきっかけとなったソンミ村虐殺事件、アメリカ国内を騒然とさせたテト攻勢……ここに書いたのはベトナム戦争のはじまりとおわりだけです。興味があれば、是非ご自分で調べていただきたいです。
それでは、今日はこの辺で。

今日は装備とかミリタリ的日常とかではなく、戦争のお話。ベトナム戦争という戦争について書いていきたいと思います。こんな記事を書くのはいろいろな意図があるんですが、誤解を招きたくないので省略します。ただ一つだけ、自分は戦争を賛美するつもりはまったくないことだけ念頭においてもらえればと思います。

そもそもなぜベトナム戦争は起こったか、実はすごく複雑で一言には言えないのですが、元々ベトナムはフランスに植民地化されていまして、第二次大戦中に日本軍が進駐して解放します。戦後、フランスは再びベトナムを植民地化しようとしますが、ベトナム人からの抵抗を受けます。この抵抗の背景には、共産主義者たちがいました。彼らはベトナムを手始めに、東南アジアを共産主義化しようとしたわけです。これを機に第一次インドシナ戦争(1945〜1954)が勃発し、結果フランスはベトナムから手を引きます。ベトナム戦争映画でフランスがちょくちょく絡むのはこういうことです。
フランスを支援していたアメリカは、共産主義勢力の拡大する東南アジアに危機感を覚えます。そこでベトナムを南北に分断し、政治的介入を行います。南ベトナムと北ベトナムです。北はソ連が、南はアメリカが支援します。

統一を掲げる北ベトナムですが、これに対しアメリカは選挙によっていずれ統一しようと言います。が、実際その通りにはいかず、北ベトナムは武力によって統一をしようと北ベトナム軍が、1960年には南ベトナム解放民族戦線(National Liberation Front、略称NLF)が結成され、それぞれ軍事行動へ乗り出します。ベトコンと呼ばれるのはこの解放戦線の人間を指し、由来はベトナム共産→ベトナムコンサン→ベトコンです。ちなみにNLFは後のテト攻勢の失敗により壊滅し、その後は北ベトナム正規軍が戦うことになります。

そうはさせまいとアメリカはベトナムに軍事顧問団(派遣先の組織力や訓練などの強化を目的とした軍人たち)を派遣します。そして本格的な軍事衝突となってしまいます。これを第二次インドシナ紛争(1961〜1975)と言い、一般的にベトナム戦争と言われる戦争です。



結局アメリカも北ベトナム相手に苦戦し(ベトコンの輸送路であるホーチーミンルートの存在、ソ連・中国・北朝鮮の支援、初期にソ連軍人に被害が出るのを恐れて効果的な空爆ができなかった、そもそも工場などの爆撃目標が少なく爆撃自体あまり効果がなかったなど、いろいろな要因があります)、一進一退を繰り返します。さらにアメリカ国内での反戦運動の影響もあり、1973年にアメリカ軍はベトナムから撤退します。この戦争により、アメリカ軍は58000名が戦死します。

元々士気も低かった南ベトナムはその後北ベトナムに押され、翌年1975年に南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチーミン)が陥落し、ベトナム戦争は終結します。
ベトナム戦争はどちらが勝ったのか、というとこれもまた難しい問題です。軍事的には中ソの支援を受けた北ベトナムの勝利です。が、同時に損害も大きく、戦後の復興に苦労したほどです(戦死者だけで100万名といわれています)。
北ベトナムの指導者は、アメリカ国内でテロをするなと指導していたそうです。なぜなら、そうなるとアメリカは国をあげて戦うからです。テロではないですが、第二次世界大戦の真珠湾攻撃がそのいい例です(真珠湾を忘れるな、と言われたほど)。アメリカ国内での被害はないのに、多くの兵士が死ぬ。これが前述の反戦運動に繋がったと言われています。民主主義であるアメリカで、戦争が支持されないということはどういうことか、それはベトナム撤退という結果からわかります。
ベトナム戦争の間には、様々な戦い、悲しい事件がたくさんがあります。ワンス・アンド・フォーエバーの題材となったイア・ドラン渓谷の戦い、反戦運動のきっかけとなったソンミ村虐殺事件、アメリカ国内を騒然とさせたテト攻勢……ここに書いたのはベトナム戦争のはじまりとおわりだけです。興味があれば、是非ご自分で調べていただきたいです。
それでは、今日はこの辺で。

Posted by アーデルハイト at 14:20│Comments(1)
この記事へのコメント
1954年締結されたジュネーブ協定では全国選挙を行って南北が統一することを決めていたけど、共産主義勢力を国民が支持することを恐れた南ベトナムの反共政権が選挙を拒否したことに触れず、北ベトナムが戦争を仕掛けたという記述や、あまりに有名な、米国政府による1964年の「トンキン湾事件」のフレームアップなど、重要な事実を逃してベトナム戦争を記述するのは意図的なのでしょうか?そうではなく、おそらく依拠された資料がそうなのでしょう。
ソンミ村虐殺などへの米国民の批判的世論や反戦運動の高揚、そしてアメリカ軍の撤退は「民主主義であるアメリカで、戦争が支持されないということはどういうことか」と筆者が書かれているとおりです。
ソンミ村虐殺などへの米国民の批判的世論や反戦運動の高揚、そしてアメリカ軍の撤退は「民主主義であるアメリカで、戦争が支持されないということはどういうことか」と筆者が書かれているとおりです。
Posted by ゼーゼマン at 2021年09月14日 02:16